2018年4月15日(日)94日目

曇り、朝から少し体調が悪い、具体的には熱っぽくて意識が朦朧としている。昨夜、寝る前に若干寒いと思ったが、薄い掛け布団を使ってしまったのが原因か。おかげで今朝は夜明けの読書はできなかった。ちょっと損した気分になるが、体調が一番だ。無理をせずに過ごしていこう。幸い今日は免業日なので一日ゆっくりできる。

「続、情報共有の未来 〜もうすぐ絶滅するという開かれたWEBについて〜 yomoyomo、達人出版社」

web+DB plus vol03

午後、TIME(3/19)の終わりかけで、雑誌に直接書き込んではいけないと注意を受ける。なんとなくダメかもと予想していたが、ついに言われてしまった。しかし、本に直接書くスタイルでは単語を覚えることに限界を感じていたのでちょうど良い機会であろう。やはりノートに書くスタイルの方が記憶にも残る気がする。京都の留置場では官本の英語の本の分からない単語をノートに移したものだ。

ハイデガーの「実存=死への存在」つまり死ぬまでの限られた時間を常に意識して自分の道を進む。それがない人は世人(非本来性)であり、死ぬまでの時間を精一杯生きると決意している人(本来性)、この2つのタイプを合わせて現存在(ダーザイン)、私がここにいることを意識できる人間であると定義する。

ハイデガー、存在と時間

サルトル、「実存は本質に先立つ」そして「人間は自由の刑に処されている」「即自存在|対自存在」人間は気がついたら実存(存在)している。よって本質を本質を後から自分自身で作らなければならない。つまり人間の実存(存在)は本質(存在理由)に先立つ。「人間は初めは何者でもない。人間は後から自分で人間になるのである。」そして何になるかは全くの自由である。しかし、そこには不安と責任が伴い、時に大きな重荷ともなる。これが「自由の刑」である。こう言った絶えず自己を意識しながら(私)という本質を作っていく人間のあり方をサルトルは「対自存在」と呼ぶ。その反対に、初めから本質として固定された存在を「即自存在」と呼ぶ。自分の可能性を常に先取りしているという意味で、人間は「あるところ(過去〜今)」のものでなく、あらぬところ(未来)のものである。ところがこの自由の刑の重みは人を安易に、他人から与えられた役割を演じることで逃れようとしてしまうことがある。

サルトル

夜、今日も終わりである。土日はあっという間に終わってしまう。平日より土日の方が楽だし、読書や勉強に取り組める。テレビやラジオよりも本を読む方が有意義であろう。明日はついに第一工場のLastだ。ようやく解放される。散髪や面接があるので作業は少ないだろう。