2018年4月30日(月)109日目

晴れ、連休3日目、明日は通常通り出役である。休日はあっという間に終わってしまう。最近また、「旧約聖書を知っていますか。」を読んでいるが、面白い。サルトルとの対比が印象に残る。この世界を作ったのは神なのか、なぜ私はここにいるのか、そしてこれからどこに行くのか。神をひたすら信じれば、救われるのだろうか。そう簡単に答えが出る問題ではないだろう。引き続きいろいろな先人たちの考えをアブソーブして、しっくりくるものを深掘りしていこう。昨日テレビで、限界集落に暮らすニートの若者特集をやっていた。何人かで月に2万円だけ出し合って、共同生活しながら自給自足をしているらしい。川辺で本を静かに読む若者を見て、こんな生活もイイナと思う。晴耕雨読の生活、実家でも同じような環境ではあるが、家族、近所のステレオタイプがすでにできてしまっているので、ちょっと違うだろう。ベストは海外、沖縄などか。もはや守るべき重荷は何もない。半ば強制的に断捨離した訳であるが、孤独を愛しながら、本質を探すのも面白い。ノマド的に生きるのも悪くないと思う。

ヨブ「私は裸で母の胎を出た。裸でそこへ帰ろう。神は与え、神は奪う。神の御名は褒め称えられよ。」

旧約聖書

私は何のために、哲学を学ぶのか、世の中を抽象化して見れるようにするためであるか。過去の失敗から、感覚的に学んできたが、「人は同じ川に2度入る事はできない。」のである。蓋し、本質を捉えたものの見方をすることできなければ、本当に失敗から学んだとも言えないであろう。そして、本質を捉えることができれば、それは未来を予測することが可能になる。そうなれば怖いもの無しでろう。1度つまづいてここにきてしまったが、その分長い準備期間を経て、相当な「はずみ」をつけて社会に戻ることができる。そこで成功することができれば、「ここに来てよかった。」という結論も導くことができるはずである。ミネルヴァの梟はまだまだ飛び立たないので、しばらくは読書・思索に耽っていよう。ただし論理ばかりで実践が伴わない頭でっかちになってしまっては意味がないので、そうならないためにどうするか考える必要がある。

夕方、脱走していた平尾受刑者がついに捕まったらしい。広島市の路上らしい。海を泳いで渡ったらしい。22日も逃げてる。どっかのワイドショーでサバイバル能力を高く評価されていたのが印象的だった。自衛隊のレンジャー部隊にでも行ったらどうかなんて言うコメンテーターもいたのだ。どのみち、日本一有名な受刑者となった訳だ。刑務所の人間関係が嫌になったようだ。

Tomorrow is the mental-labor day. Oh, take it easy.